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不登校漂流記 第3回:両親の対抗策

【1話から読む】

 

中学生になっても、不登校は続く

ほどなくして、少なくとも私の体は健康であるとわかりました。病気も何もなく、健康そのものです。しかし、どうしても私は学校へ行くことができませんでした。それは、目に見える形で現れる障害ではなく、朝起きることができない、夕方になったら元気になるという、傍から見れば仮病にしか見えない状態です。しかし、私は実際朝起きるのがとても苦痛で、そして学校が終わる時間になるとびっくりするほど気分が軽くなり、そのままずっとパソコンに向かっていました。

小学校を卒業し、中学生になりました。しかし、入学式にはなんとか学校へ行けたものの、一週間もしないうちに再び学校へ行かなくなりました。クラスメイトと目を合わせることもできません。とにかく、最初の挨拶がどうしてもできなかったのです。

「はじめまして」

とあいさつした時に

「はじめましてじゃないよ」と言われてしまうかもしれない。

その時の私は、もう一度「はじめまして」から人間関係を作り上げる自信がありませんでした。もう一度始めても、また忘れてしまう。そんなことに何の意味があるのでしょうか。

なにより、ずっと一緒にいた友達から「はじめまして」と言われたとき、私はきっと戸惑ってしまうとおもいました。だから、クラスにいる友達かもしれない人に、何と声をかけていいのか分からないまま入学式を終え、家に帰った時にはもう疲れてヘトヘトでした。

両親も動き始める

小学6年生から始まった不登校生活も1年が経ちました。はじめのうちは心配して様子を見ていた両親も、病気でないとわかれば行動を開始します。何とか問題の解決を図ろうとしていました。カウンセリングを受けられるよう予約をしてくれたり、学校の先生と連絡を取ってくれたり、友達も連絡帳を届けてくれました。私の周りの人達は学校に行かせることに大変協力的でしたが、一方で、そのどれもが私にはほとんど効果がありませんでした。周囲の人たちの協力もむなしく、夜遅くまで起きて朝眠るという生活になっていきました。

ある日、ついに我慢できなくなった父が私を連れて学校に向かったことがありました。

私は嫌がることもなく、父の後をついていきました。何を話したのかは覚えていません。ただただ、私は無心で父の後をついていき、学校の近くまで送られて「行ってきます」と言って学校へ向かいました。そして何度か後ろの様子をうかがって、父の姿が見えなくなった瞬間に、道を引き返し走って家まで帰りました。

あとでそれを聞いたときの父の落胆ぶりは、見ていて気の毒になるほどでした。しかし、私は教室に向かおうとすると足が震えて「もうだめだ」と思ったとき逃げかえるしか方法が浮かばなかったのです。

そんな私に提案されたのは 保健室登校で した 毎週1回か2回保健室に登校しお昼頃に帰ってくるというプランです。とはいえ、教室に入るまでには至らない状態が続きました。しかし、これは私にもいいことがありました。保健室 に行くことで学校に行けていない罪悪感から逃れていたのです。

保健室に行けた日私は「学校に行ったよ」と父に報告しました。もちろん教室に入れたわけではありません。でも、学校に行けたと言うと、父はもうそれ以上何も言いませんでした。保健室に顔を出すと、もうそれだけでその日一日気楽に過ごすことができるので、私は保健室にちょこちょこと顔を出しては勝手に帰り「学校に行った」と報告をし続けていました。

しかし、私はどうしても教室に入ろうという気持ちにはなれなかったのです。

両親の行動及びその結果

屁理屈のような方法で「学校に行った」と報告を続けていた私ですが、その間も両親は様々なアプローチをしてくれていました。ここでちょっと振り返りながら、説明をしていこうと思います。

ただ、前もってお伝えしておきたいのは、両親の取った方法は間違っていなかったということです。これらのアプローチは私にはほとんど効果がありませんでしたが、その理由は後ほどお話させていただくとして、まずは、両親が私に対してどんな対応をしてきたのかと、その結果をごらんください。

  • 「カウンセリングに連れていく」

結果:一回行った後はいかなくなった。

カウンセリングはかなり早い段階で行きました。心理テストに答えて、カウンセラーの方とお話をしたのですが私は「行きたくない」と言って、二回目以降の受診は拒否しました。

  • 「友達に宿題を届けてもらう」

結果:最初はやるけれど、だんだんめんどくさくなる。

同様に、先生が家を訪問してくれることもありましたが、ただひたすら居心地が悪かったです。「待っているよ」というメッセージをもらっても「いや別に」という具合でした。本当にやめてほしかったです。

  • 「一緒に学校に登校する」

結果:走って逃げる。

今回お話した通り、最終的には逃げ帰ってしまいました。結果的にこれが、大きな失敗体験ともなりました。

  • 「休むときは自分で学校に電話する」

結果:今でも役に立ってます。

学校に欠席の連絡を自分で入れるように言われたのは、小学生の終わりごろからです。私は「電話すれば休んでいいんだ」と気分が楽になりましたし、これ以降、高校に上がってからも欠席の連絡は自分で入れるようになりました。そのたびに先生と話ができるのですが、お互いの声を聞くのはやはり安心するようです。両親の対応の中で、一番役に立っているのはこれです。

繰り返しになりますが、これらは間違った行動ではありません。カウンセリングはやっぱり行ったほうが良いと私も思いますし、一緒に登校することがいい場合もあるでしょう。しかし、私の場合問題はもっともっと根本的なものでした。

全ての行動が「追い出される」と錯覚する

両親は私が学校に行けるよう、たくさん対応をしてくれました。しかし、私はといえば行けて保健室、それも数時間で家に帰るということばかりを繰り返していました。

学校に行かなくなってから一年が過ぎると、私の気持ちもずいぶんと変化をしてきました。

最初は「初めまして」が怖かったのです。失敗をした時、人は私を拒絶するのではないかと不安でした。間違いを犯したとき、人は私を拒絶して、もう二度と仲間には戻ることができないのではないかと思っていました。

そしてそれは、思わぬ形で証明されます。

それが、私が不登校になったときの、両親の反応でした。

両親は、とても苦しんだと思います。そして、どうすれば学校に行くことができるのかを考え、一つ一つ行動してくれました。しかしその一方でそれは「学校に行けない」という失敗を犯した私を「遠くへ離そうとしている」という事でもありました。皮肉にも両親は、私が恐れていた状況を一つ一つ実行していたのです。

両親が1年かけて学校へ行かせようとしてくれた行動は全て、私を家から追い出そうとする行動として受け取っていたのです。学校へ行けたときに、笑顔になる両親を見るのが辛かったです。家にいないこと、ここにいないことを喜ばれるのはとても辛いことです、学校でも相変わらず人に話しかけることはできません。

自分を認めてくれる場所はどこにもないのだと、日々感じ続けていました。帰る場所が無いからこそ「行ってきます」と外に出かけていけなかったのです。学校でなくても、家から出かけるのは怖いものでした。だから、何度も何度も、外に連れ出そうとされる度に私は必死で抵抗しました。

それは「今ここで追い出されたら、本当に本当に、帰る場所がなくなる」という心の叫びの現れだったのです。

そんな、中学一年生の冬、私は転機を迎えることになります。

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著者:キッチンタイマー

 

1995年6月11日生まれ。モノ書き。中学3年間の引きこもりを経て、現在は発達障害の子どもたちを支援する塾で働いている。明日のこと、もとい3分後のことすらろくに想像ができない。基本的に人に興味はないが、なぜか彼女がいる。アクティブ系コミュ障のため人と会話をすると必ず論点を見誤ってしまう。珈琲が飲めない。苦いものが全般的に苦手。甘いものが大好き。現在はwebサイト「note」にてエッセイを投稿中。

https://note.mu/kitatani293

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