不登校漂流記 第4回:決断は実を結ぶ
2018年6月2日 : コラム
【1話から読む】
「待つ」という決断
一番近くにいた人である両親でさえ、失敗した私を遠くへ追いやろうとする。だからこそ、人間関係を作り、深い関係を作っていくことは私には無駄なことに思えたのです。どんなに努力をしても、私が失敗を犯した瞬間に、両親と同様に突き放されるかと思うと苦しかったです。
私はすでに、新しい人間関係を作り出す気力は一片も残っていませんでした。
中学一年生の終わり、冬の時期のことです。両親は1年間不登校の私と向き合い、二人で相談して方針を決めたそうです。
「……もう、無理強いするのはやめよう」
私を学校に行かせようと行っていたすべての試みを、ストップさせました。学校に連れていくことをやめました。学校に行く様に促すこともやめました。先生も家に来なくなりました。その代わり一つ、両親と私で約束をしました。
「学校に行かないという連絡は自分でしなさい。それなら、もうその日はいかなくていいから」
私はその約束をしてからというもの、毎朝起きては「今日は行きません」とか「〇時に保健室に行きます」などと、電話で連絡を入れました。ただそれだけで、私の気持ちはずいぶん楽になりました。ドキドキしながら、学校が終わる時間になるまで身を縮めて待つことはなくなりました。行くか行かないかを自分で決められることは、今まで行きなさいと言われ続けていた朝がずいぶん違ったものに変わっていったのです。
もう一つ、大きな転機がありました。父には申し訳ないのですが、父が転勤し単身赴任で家を離れたことです。「お父さんが転勤してからすっごい楽だわ」と毎日パソコンの前に座り込みました。毎日、パソコンでチャットをしたり、ブログを書き始めたのもちょうどこの時期でした。
不登校生活も二年になろうというとき、両親は私を拘束からゆっくり離し、自分の決めたことを自分で伝えるようにやり方を変えていきました。自分の責任は自分で取る、小さなところから自分のできる範囲で意思決定をさせてくれました。両親は、相当勇気が必要だったのではないかと思います。
私にとって幸運だったのは、学校と関わる機会は細く細く、しかし絶えず持っていたことでした。
行かないときでも、学校に電話する。学校に行くときは保健室に登校してもいい。先生は来ないけれど、こちらから行きたくなったときは受け入れてくれる場所として保健室がありました。中学3年生になったときの学校は、私を誘いには来ないけれど行きたくなったらいつでも行っていい場所へと変わっていきました。
それは、両親の辛抱と学校の辛抱の両方が少しずつ実っていきました。
行かなくてはいけない。そんな焦りはありましたが、その焦りで動いた先に必ず誰か受け止めてくれる。私は少しずつ、学校と両親に対する信頼を回復させていきました。
高校、行きます。
「高校、どうする?」
両親から聞かれた時、私は何を聞いているんだろうと思いました。
「え、行くよ」
中学を卒業したあとは、高校だろうとなんとなく思っていました。そこには何の嫌悪感もなく、当たり前のように進学するという気持ちがありました。そこには、不安はあまりありませんでした。おそらく、進学するという実感がほとんどなかったからだと思います。
一方の問題は、選べる学校がそこまで多くないということです。そこまで、というよりも、ほとんどゼロでした。私が進学に向けて動き始めたのは3年生の11月だったのです。
焦る私に先生が勧めてくれたのはS高校という、通信制なのに、通うこともできる校舎があるという一風変わった高校でした。
ほとんど選択肢のないままオープンスクールへ行ったとき、私は「ここにする」と決めました。選べる立場だったわけではありません。でも、私は初めてその学校へ足を踏み入れた時「ここに通いたい」と強く思いました。
その高校の最後の入試を受けました。
卒業の時期は迫ってきています。それが私のラストチャンスでした。
「おめでとうございます。合格です」
中学校の教室へ行くことはほとんどできないままでしたが、私は高校へ進学することになりました。
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著者:キッチンタイマー
1995年6月11日生まれ。モノ書き。中学3年間の引きこもりを経て、現在は発達障害の子どもたちを支援する塾で働いている。明日のこと、もとい3分後のことすらろくに想像ができない。基本的に人に興味はないが、なぜか彼女がいる。アクティブ系コミュ障のため人と会話をすると必ず論点を見誤ってしまう。珈琲が飲めない。苦いものが全般的に苦手。甘いものが大好き。現在はwebサイト「note」にてエッセイを投稿中。
https://note.mu/kitatani293
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